2011年11月02日

鎌田三之助と品井沼干拓事業

鎌田三之助扇は、子供の頃に、わらじ村長と品井沼干拓の事を授業で習ってから
ずっと、尊敬している人物です。



                豈  若  蒼  魚
                費  教  波  鼈
                経  世  萬  蛟
                綸  道  傾  龍
                三  如  尽  何
                百  人  稲  処
                年  意  田  辺

  








鎌田三之助(かまたさんのすけ)は、品井沼排水事業(しないぬまはいすいじぎょう)に生涯をささげた鎌田玄光(かまたげんこう)とその遺志(いし)を継いだ三治(さんじ)の子として、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三年)、木間塚村竹谷(きまづかむらたけや)(現在の鹿島台町(かしまだいまち))に生まれました。
 少年期の三之助は賢くて力も強く、誰もかなう者がいなかったと伝えられています。
 明治十一年(一八七八年)、三之助は政治家になろうと思って上京し、明治法律学校の法学部に入学します。十五歳の春のことです。三之助は東京で六年間を過ごしますが、ここで西欧の文化を大いに吸収します。明治十六年(一八八三年)、二十歳のときに郷里に戻った三之助は、父三治を助けて品井沼干拓(かんたく)事業に打ち込みました。
 三之助は、品井沼干拓事業に情熱を傾けると同時に郷里のために医療や教育にもかかわるようになります。三之助が二十一歳のときです。郷里で天然痘(てんねんとう)が流行したとき、三之助は疫病(えきびょう)が広がることを心配していち早く痘苗(とうびょう)(種痘(しゅとう)に用いる天然痘のワクチン)を購入し、すべての費用を自分でまかなって村民に接種(せっしゅ)しました。
 また、当時医師のいなかった木間塚村に栃木県から医師の大越寿亭(おおこしじゅてい)を招き、医薬品や医療器具を与えて開業させたりもしました。この費用もすべて三之助が負担したそうです。この他にも、木間塚村に大成館(たいせいかん)を建てて青年たちを教育し、農村の文化向上のために情熱を注ぐこともしました。
 このように郷里のためにつくす三之助は、多くの人から尊敬と信頼を集めて明治二十七年(一八九四年)四月に志田郡(しだぐん)議会議員に当選します。続いて宮城県議会議員にも立候補し、三十一歳の最年少議員として当選を果たします。その後も、明治三十五年(一九〇二年)八月に行われた第七回国政選挙(こくせいせんきょ)に立候補して当選を果たします。
 代議士時代から移民政策(いみんせいさく)による全国の農村の救済(きゅうさい)を考えていた三之助は、メキシコ移民計画を立て、明治三十九年(一九〇六年)十一月十日、現地の調査のため自ら同志の村民二四人を率いて、横浜からメキシコへと出発します。三之助四十三歳のときでした。
 メキシコの調査もほぼ完了していよいよ計画を実施しようとした矢先(やさき)、郷里の宮城県知事亀井英三郎(かめいえいざぶろう)から一通の電報が飛び込んできました。
 「シナイヌマモンダイフンジョウ キカノアッセンヲマツ」(品井沼の工事で問題が起こりごたごたしている。あなたのあっせんを待っています)
 一日置いて、矢継ぎ早に急ぎの電報が入ってきました。三之助が急いで帰郷してみると、品井沼干拓事業工事請負人と組合管理者(宮城郡長)との間に争いが起こっていました。工事続行派と中止派とに分かれて問題が起こり、工事は三之助が一年前にメキシコに向けて出発したときからほとんど進んでいませんでした。三之助がいなくなると、それぞれの村で意見の不一致(ふいっち)が出て、次第に感情的になってしまい、品井沼干拓工事の無用論や不可能論をいい出す者が出てきたのです。亀井県知事の仲裁でも問題を解決することができずに三之助をメキシコから呼び戻したのでした。
 三之助はこの事態に、
 「私財を使い果たしても水害から村々を救おう。沼の沿岸八〇〇ヘクタールの水害を防止して新たに水田を一〇〇〇ヘクタールつくろう。これが荒れ果てた村々の復興につながる」
と決意を新たにして反対派を説得し、工事を続けるようにしました。
 品井沼の干拓のために力をつくした三之助は、明治四十二年(一九〇九年)、村人たちの強い願いで鹿島台村(かしまだいむら)の村長になりました。村長となった三之助は給料をもらわず三十八年間無給で村のためにつくし、講演の謝礼が出れば小学校に寄付(きふ)して教材費に使ってもらいました。これは「ぜいたくをしない」という考えを村の人たちに広めるために、自分がお手本となって貧しかった村を救おうとしたのです。
 三之助は村人と膝(ひざ)を突きあわせて話をするために村内行脚(あんぎゃ)を始めました。毎日毎日、行脚する村長の姿に、村人たちは
 「日の照らない日はあっても、村長さんの見えない日はない」
というほどでした。
 三之助は、役場の小さな土間(どま)を村長室にして、土間から板の間に上がる段に村長の席をつくりました。破れた帽子をかぶり、古びた上着とつぎはぎのズボン、脚半(きゃはん)(旅などで歩きやすくするためにすねにまとう布)にわらじばきの三之助を見て、いつしか、村の人たちは親しみを込めて「わらじ村長」と呼ぶようになりました。


鎌田三之助と品井沼干拓事業

わらじ村長は、本気でわらじ履きで小汚い格好してたそうです。
うちの叔母さんが、見たことあるそうで、ホントにあのかっこだったよって言ってたわ

それと、おもしろエピソードで、県から視察に来た人が役場に行ったら
用務員のおじさんしかいなくて、一服しながら村長を待ってようと
用務員のおじさんにたばこを買ってきてと頼んで、役場で村長が帰って
くるのを待ってたら、煙草を買いに頼んだおじさんが村長だったって
エピソードがある。

品井沼の干拓事業がらみで、オランダ人のファン・ドールン土木技師が出てくるんだけど
この人はどちらかというと、野蒜築港の方で有名で、そこから貞山運河と川村孫兵衛とか
興味の輪が広がっていって。絶対、川とか土木工事が好きになるよ。俺がそうだもん。

まだ未編集仮UP

タグ :日記大崎市

同じカテゴリー(日記)の記事画像
向洋高校
夜釣り
秋刀魚
釣り
つぼ姫様
机の整理整頓
同じカテゴリー(日記)の記事
 向洋高校 (2017-04-06 17:50)
 みちびき地蔵 (2015-02-03 18:14)
 女川原発爆発したかと思った (2015-01-27 10:27)
 夜釣り (2014-09-01 09:53)
 秋刀魚 (2014-08-24 20:53)
 釣り (2014-08-04 16:28)

Posted by きゃっぽり~にょ おおかみ at 07:05│Comments(4)日記
この記事へのコメントm(_ _)m
おはようございます

鎌田三之助

おりましたね

習いました!

確かその町に

デカイ油揚げ屋さんが

あります

交番の並びに!!

ほんと大きな油揚げ食べたくなりました


その時に行くくらいかなぁ!
その町に行く事って
わらじ祭りなんかありますよね

久しぶりに聞いた鎌田三之助でした

今日も頑張りましょうね
Posted by ☆shi☆ at 2011年11月02日 07:48
おはようございます!!

う~ん、朝からいい話を聞かせていただきました。身近にも素晴らしい方がいたのですね。
間違っても、こうはなりませんが、名前だけはしっかりとインプットさせていただきます。

きょうも、がんばりましょう!!
Posted by 痩せないパパ at 2011年11月03日 07:26
>>☆shi☆さん

松島屋ね


>>痩せないパパさん

政治家は、見習ってほしいと思います。
Posted by きゃっぽり~にょ おおかみきゃっぽり~にょ おおかみ at 2011年11月04日 06:49
いいね
Posted by しのん at 2013年12月11日 12:16
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
鎌田三之助と品井沼干拓事業
    コメント(4)